新商品【三浦英雄列伝墨絵Tシャツ】の発売が待たれるばかりの今日この頃。今回は、その【三浦英雄列伝墨絵Tシャツ】モチーフのひとり、和田義盛を横須賀ジーンズ商会ならではの角度からご紹介したいと思います。
和田でも三浦
祖父は、平安時代末期の武将であり、三浦一族の隆盛の礎となった武将・三浦義明。父は、義明の長男・(杉本)太郎義宗。義宗は三浦半島を出て鎌倉郡杉本郷に杉本城を構えたため、杉本の性をとりました。ちなみに、祖父義明の娘は、初代征夷大将軍・源頼朝の父、源義明の側室でした。つまり、和田義盛からみたら、叔母さん(父の兄妹)が、頼朝のお父さんの側室(義理の母)という関係。ちょっとややこしいですが、三浦氏と源氏の関係がグッと近いことをここで感じていただきたいわけです。
さて、祖父は三浦、父は、杉本、そして自分は和田なのは、なぜでしょう。というのも、義盛も最初は父の性、杉本を名乗っていましたが、父・義宗が39歳という若さで戦死。父が継いでいた三浦の家督は、父の弟・義澄が継ぎ、義盛は領地であった相模国三浦郡和田(和泉国和田、安房国和田などの説がある)の和田城に移り住み、和田と名乗るようになりました。義盛は和田氏の家祖とされています。
○三浦義明―+―杉本義宗――和田義盛
(三浦介) |(太郎) (小太郎)
|
+―三浦義澄――三浦義村
(三浦介) (駿河守)
|
+―娘
∥ ――――源義平
源義朝 (悪源太)
(下野守)
生自と出世
義盛は叔父の義澄らとともに源頼朝の挙兵をサポートし、頼朝の信頼を得ました。いよいよ鎌倉入りをはたした頼朝は、何代にも及ぶ三浦一族の忠誠に報いて、義澄を幕府御家人の宿老(高官)に、義盛を侍所別当(軍事長官)に据えました。
頼朝の功臣として活躍を果たす義盛は ”三浦大介義明の嫡孫は我なり” と言わんばかりの根性でした。一方、そこに見え隠れするのは、三浦宗家への対立する思いでもあります。胸に秘めた勝気をバネに、実際、和田氏の地位も所領も、三浦氏宗家を遥かに超えるほどでした。
正治元年(1199)頼朝が急逝することで、義盛の立場が変わり始めます。幕府内での、北条氏が幅を利かせ始めたためです。北条氏は、策略巧妙に執権体制確立を急ぎ、人事整理に動きます。和田氏はその最大の標的でした。

和田義盛
画像引用:Wikipedia
従兄弟に裏切られるの巻
北条氏の策略の波と連動するかの如く、御家人たちが北条氏にご機嫌伺いをし始めます。そのうちの一人が、義澄の子であり、義盛の従兄弟にあたる三浦義村です。
この義村、三浦一族全盛期の当主なのですが、只者ではない。というのも、かなりのくせ者。その場に応じて立場をコロコロと変えては、地位を確立した権謀なのです。『明月記』の作者・藤原定家も ”義村八難六奇之謀略、不可思議者歟” と記すほど、同世代の人物に ”策略家” ”不思議ちゃん”と言われており、鎌倉で起きた変事には必ず義村が関与していたとか。台頭する北条氏と連帯し、義村は強かな政治手腕を発揮して、北条氏に次ぐ実力者となりました。
そして起こるのが、和田合戦。以前、我らが(?!)武次郎義国に関するブログ記事でも触れた義盛vs北条義時の戦いです。北条氏の挑発にまんまとはまってしまった義盛を、これまたまんまと裏切った人物こそ、義村です。義盛に協力誓書を提出しておきながら、開戦前夜、北条方についたのです。

和田合戦図(歌川豊国)
画像引用:Wikipedia
「近親の訴えを聞いて時代の主に弓引くことはできない」
と保身術たっぷり、策略たっぷりに寝返ったのでした。勇戦する義盛でしたが、多勢に無勢、敗死し、和田一族もこの時滅亡しました。悔しいいじゃぁないですか!最後は一族、しかも従兄弟=宗家に裏切られてしまうなんて。義盛と義村の祖父、義明はそんな二人の運命をどう見ているのでしょうね。
武次郎義国が惚れた男・和田義盛
ここまでざざざーーーっと、三浦一族としての和田義盛について綴りました。次回は、もう少し義盛の人間味にフォーカスを当てたストーリーをご紹介し、義盛の魅力をググッと掘り下げたいと思っています。
そして、さらに!
来年(2022年)放映予定の 大河ドラマ『鎌倉殿の十三人』は、鎌倉幕府の二代将軍頼家を支えた13人の御家人の物語。そう、和田義盛もその13人のひとりです!もはや横須賀は、ここで盛り上がらないでいつ盛り上がるんだってくらい、大河ドラマの話題で持ちきりの今日この頃です!

2021年11月某日 観音崎ボードウォークにて