横須賀の観光地やちょこっとした調べ物をすると、ふたこと目には、ヴェルニーというフランス人の名前が登場します。あまりにも、登場回数が多いので、おもわず「誰だよ!ヴェルニーって?」と突っ込みをいれるほどになってしまったので、今日は、この場を借りてその謎を解明させていただきます。
幕末とフランス
時代は江戸も末期。ヨーロッパ列強はアジア諸国進出を目論み、外交政策として日本にも公使を送りこみはじめていました。
なかでも、フランスとイギリスは、日本との外交権をとりあうかのように熱いバトルを繰り返していました。
他の国同様、時のイギリス公使は、日本の外交や貿易の知識の乏しさにつけこみ、威張り散らし、強引な対応だったのに対し、当時のフランス公使であるレオン・ロッシュは物腰も柔らかく、礼儀正しく、”手助けをする”といった姿勢でした。
当時、幕府では列強から国を守ることが急務であると、江戸の近くに、海軍施設として、自国で船を造り修理するための造船所を建設する計画が持ち上がります。
幕府が既にフランスに頼っていたこともあり、フランス支援による海軍のための造船所建設計画が動きはじめます。
その年、1865年。下関戦争で長州藩と2度の戦闘劇を繰り広げたフランス海軍提督パンジャマン・ジョレスが、中国の寧波で既にフランス海軍の造船所やドック、砲艦を建造しその能力を発揮し認められていた、技師のレオンス・ヴェルニーを造船技師として日本に要請します。
満を持して登場!レオンス・ヴェルニー!
フランスのグランゼコール(フランスのエリート養成機関)であり、その中でも名門のエコール・ポリテクニーク(理工科学校)の出身であるレオンス・フランソワ・ヴェルニー。本人の成績や風貌の記録が今でも残っています。
学生ヴェルニー(フランソワ、レオンス)の身体的特徴およびメモ
身長 1m73cm8mm
頭髪及び眉毛 くり色
額 ふつう
鼻 ふつう
目 青色
口 ふつう
あご まるい
顔つき 卵形
品行 とてもよい
身なり 良
からだは大きく長身で少し猫背。まっすぐな性格で、つつましく、意思はかたい。顔つきは厳しく、からだも丈夫。近視で、目が悪いことが原因で頭痛に悩まされた、という記録も。
御年38歳で日本にやってきたヴェルニーは、そのひょろっとした風貌からか、若年士官や大学卒業間近とも見られ、当初、幕府内では、「こんなやつを海軍の重要施設の建造監督にしても大丈夫なのか?」と心配する声も出たとか。
しかし、実務が進行するうち、その決断力があり、その緻密で誠実な仕事ぶりに、人々はヴェルニーを認めたと、いいます。実際、ヴェルニーは、海軍施設建設の人事、工事のすべてを担い、時には、フランスへ帰国し、機材を調達したり、雇用の人選もしました。鍛冶屋、仕上げ工、機械技師、金物製作工などの人材を、フランス数カ所の海軍工廠から集めているほどです。
横須賀は日本のツーロン
ヴェルニーは来日後、中国から持参した建設資料と見積もりを基に駐日公使のレオン・ロッシュらと製鉄所の原案を作成します。計画では4年間で製鉄所1カ所、艦船修理所2カ所、造船所3カ所、武器庫及び役人、職人の宿舎を建設することになっていました。
そして、建設地としては、横須賀が選ばれます。
その理由は、
- 江戸に近い
- 天然の泊まり地がある
- 艦船の停泊に十分な広さと深さを備えた海面
- 波浪の影響を受けにくい入り江
- フランスの軍港ツーロンによく似ている
ということがあげられています。
ツーロンは、フランスの要港であり、日本の欧州視察団である文久遣欧使節も、このツーロンをヴェルニーの案内のもと、視察しています。その際、視察団一行はその造船所、特に乾ドックに大いに感銘した、という記録が残っています。横須賀の地形はツーロンに似ているので、造船所はツーロンにあるものに倣い造られました。
江戸末期は戸数30余りの小さな漁村であった横須賀に、ヴェルニーの設計により、二つの入り江が埋め立てられ、一つの山が取り崩され平地となりました。
そして、まず最初にお雇いフランス人のための宿舎がつくられます。ヴェルニーはそのために、建築課長、建築頭目、製図・建築職工長をフランスから雇い入れています。
宿舎建設後、船台、倉庫、工場などが建てられました。
一方、造船所建設敷地内にあった農家は移転させられたそうです。
そして、造船所がほぼ完成した1873年頃には、横須賀は、千以上の戸数になるほどのまちになっていました。
業務は順調、問題は予算
日本人の職人(大工、左官工、とび、土木工など)や、人足を使い、フランス人たちが驚く程のスピードで建設がすすみます。現場での言語は、フランス語でしたので、工事の一部を請け負った職人は、扇子に普段使うフランス語を書き込んでいた、といいます。(光景が、目に浮かびます!)
ヴェルニーの横須賀での艦船建造は順調に進みました。
常に、40数名のフランス人技術者たちを統率していたヴェルニーでしたが、その給料は、大変高額で、新政府下の日本にとっては大きな打撃でもありました。
1876年、経費削減を理由に日本政府はヴェルニーを解任。
日本に来て10年が経っていました。帰国前、ヴェルニーは、明治天皇謁見をうけています。また、送別の宴も公式に催され、多くの政府要人が出席しました。
ここで改めてヴェルニーが携わった功績を列挙します。
- 横須賀造船所(製鉄所)
- 海軍施設ドック
- 御召船・軍艦
- フランス人住宅
- 観音崎灯台
- 野島崎灯台
- 品川灯台(移築現存している)
- 城ヶ島灯台(各灯台は関東大震災で壊れる)
- 走水水道
- レンガの製造
- 技術学校の設立(日本人技術者の育成)
技術士として造船所やその他の建造物をつくることだけに留まらず、きちんとその使い手であり修理に携わる、後世の技術者を養成することを念頭に置き、技術学校まで設立しています。(できすぎだよ、ヴェルニーさん!)
日本の近代化を技術士として押し進めた、ヴェルニー。
幕末から明治にいたるまでの、日本近代化の政治的荒波が怒濤のように押し寄せ、日本が変化していくさなか、自分に託された仕事を全うし、そして、その卓越した技術を横須賀造船所創設に惜しみなく注ぎ込みました。
日仏友好の象徴として、また、幕末の代表的人物として、いまでも名が残るのも、納得がゆきました。
そして、ヴェルニーがフランス人ではなく、ツーロンを知らない、誰か他の人で、ツーロンによく似た横須賀を知らなかったら・・・?ヴェルニーのような技術力や統率力がある人がもし日本に来なかったら・・・?もしかしたら、今の横須賀は違っていたかも・・・?と、想像せずにはいられないのでした。
Merci beaucoup, Monsieur Verny!
画像引用:横須賀市上下水道局
https://www.water.yokosuka.kanagawa.jp/history/suido/01.html
François Léonce Verny・フランソワ・レオンス・ヴェルニー
年表
- フランス南東部ローヌ=アルプ地域圏アルデシュ県オーブナで生まれる
- 父は製紙工場の経営者で、5男2女兄弟の三男
小学校では平均的な成績
高校進学のため家庭教師指導により成績向上 - 1853 16歳で、リヨンのリセ・アンペリアルに入学
- 翌年数学で学年一位になる
因みに、科学の成績はいまいち
余暇にはバイオリンや馬術を嗜む - 1856 当時軍学校だったエコールポリテクニークに、中くらいの成績で入学
- 1858 おおむね良好な成績で卒業
海軍造船工学学校に入り、海軍技術者となる - 1860 工学学校卒業
- フランス西部、現在フランス最大の軍港であるブレストの造兵廠に着任 造船、製鉄、艦船修理など、多岐にわたる業務をこなす
- 1862 北京条約後も清での戦闘が続くフランス海軍が中国の寧波で造船所やドックを建設、建造監督として就任
- 9月 マルセイユからアレキサンドリア、スエズ経由し上海へ 寧波につくと副領事に兼任
造船所や倉庫、ドックを建設 - 1864 4隻の砲艦を建造全て竣工
その砲艦は、あらゆる専門家からの賞賛の的に功績を讃えられレジオンドヌール勲章授与 - 1865 フランス海軍提督パンジャマン・ジョレスの要請により造船所建造計画に参画
- 必要物品の購入や技術者手配のため一時帰国
故郷で休養後、8月から12月まで文久遣欧使節に同行、海軍施設などを案内 - 1866 3月 マルセイユ発
6月 横浜到着
造船所建設が急ピッチで進む - 1867 上海で上海フランス領事の娘と挙式
- 10月 大政奉還
- 1868 戊辰戦争勃発
- フランス人は横浜居留地へ退去するよう指示が出るも「政治的事件のとばっちりを受けても、事業は中断できない」として通報艇を待機させながら横須賀で業務
- 4月 神奈川裁判所が横須賀製鉄所を接収
新政府は予算難によりフランス人の解雇と工事の中断を検討
フランス公使やヴェルニーの反対によって建設継続 - 1869 5月 妻の健康問題で休暇 フランスに帰国
- 1870 3月 横須賀に戻る 長女が横浜で生まれる
- 1872 ヴェルニー指導によって造船された日本海軍の艦船蒼龍(さうりゃう/そうりょう)が進水
- 1874 長男 横須賀で誕生
- 1875 日本海軍の軍艦で日本初のヨーロッパ遠征戦艦
清輝(せいき)が進水
横須賀の村民とともに 進水式を祝う
次女 横須賀で誕生 - 1875 12月 明治天皇の謁見
- 1876 1月 送別の宴
- 2月 在任中の記録をまとめた報告書を日本政府に提出
- 3月 ヴェルニー解雇
家族とともに横浜港から帰国 - 帰国後、フランス海軍内での求職活動が難航したのち、炭鉱の所長となり海軍を退職
鉱山学校の設立などにも携わる - 1888 故郷に家を購入
- 1895 炭坑の仕事を辞め故郷の家に住む
悠々自適な生活 - 1908 5月 肺炎のため死去
参考外部リンク:
ーヴェルニーと横須賀造船所by宮永孝(法政大学)ーhttps://ci.nii.ac.jp/naid/110000184616
ー幕末の日本とフランスーhttps://www12.plala.or.jp/diapason/mu_mo_-_ri_bentofuransu/mu_mono_ri_bentofuransu.html
ー小栗忠順−今日の工業・技術大国の礎を築いた最後の侍byWisdomーhttps://www.blwisdom.com/strategy/series/rekishi/item/1243-22.html