横須賀で生まれ横須賀で育った男による横須賀ジーンズ商会。 地元横須賀を愛し、ジーンズをはじめとするオリジナル商品を通じてその地元愛を全国に、そして世界に響き渡らせる事を目論んでおります。 さて、今回は、いま、この時代に是非とも紹介したい横須賀の歴史上の人物のおはなしです。
横須賀の男が愛する横須賀の男
その名は、武次郎義国(たけ・じろう・よしくに)。 横須賀が位置する三浦半島のど真ん中、おへそのような場所にある武山(たけやま・標高202m)を中心に武(たけ)という場所があります。武に居住していたことからその名をもつ武次郎義国は、平安時代末からこの地を本拠地としていた三浦氏の氏族で、鎌倉時代の実在人物です。 地元横須賀でも、今でこそ知る人が少なくなってきていますが、横須賀、特に武の人々にとっては古くから信仰の対象であり、地元の英雄的な存在です。 横須賀が愛する横須賀の男、武次郎義国。 ”忠誠心”や”義理と人情”という言葉を使わなくなりつつある今日この頃ですが、武次郎義国は、無茶苦茶に自分の想いを通し、自らの命を犠牲にしながら、義理人情をはたした男でした。ここで少々、日本史の勉強を。武次郎義国をより深く知るためには、その時代背景を抑える事が必要不可欠です。 少々長くなりますが、ぜひお付き合いを。
鎌倉時代はドロドロな人間ドラマの連続
時は平安時代末期。1180年、石橋山の戦い(別名・小早川の合戦)に端を発した源平合戦は、源氏劣勢で幕を切ります。平治の乱により伊豆に流刑中であった源頼朝は、同年の富士川の戦いで三浦半島に勢力を持つ三浦一族と手を組み、平家軍に勝利します。その後、頼朝は鎌倉に戻り、関東を平定することに注力します。 三浦一族のひとりである和田義盛(三浦義明の孫)は、頼朝の元で長く功臣として尽くした武将です。鎌倉幕府を築く頼朝に、侍所別当(さむらいどころ=武士の人事担当)として選ばれた和田義盛は、平家を滅ぼすこととなる壇ノ浦の戦いで、活躍しました。また、1189年、奥州藤原氏と源頼朝が戦った奥州合戦でも、和田義盛は、先陣を切り活躍したといわれています。
鎌倉幕府を築いた源頼朝は、幕府建立から7年後の1199年に死去。頼家が将軍位後を継ぐも、北条氏(源頼朝の妻である北条政子の一族)と武蔵国を仕切る比企氏(乳母として源頼朝および頼家を育てた一族)との政治争いに巻き込まれ、将軍の地位に就いてからたったの5年後の1203年に将軍位を降ろされます。更に翌年1204年に、21歳という若さで謎の死を遂げたのでした。 この辺りから、鎌倉幕府周辺は、権力争いと家系抗争が密に絡み合い、騙し合い、裏切り、殺し合いの、ドロドロな人間ドラマが繰り広げられるのです。 1203年(頼朝没年から4年)三代目将軍に頼家の弟である実朝が就任するも、10代前半と若すぎたため、実朝の補佐である北条時政(北条政子の父)が事実上の権力を握ります。ところが、たった2年後の1205年に、北条時政は女性問題(!)により、前妻の子供である北条政子および義時によって、鎌倉を追放されます。時政失脚後、政子と義時の二人が政治の実権を握りました。 月日は流れて1213年。三代将軍源実朝を操り、確固たる権力を握りたい実権者である北条義時は、その他の権力争いの犠牲として滅びていった一族同様に、当時強い力を持ち始めていた和田一族を滅ぼすことを企てます。頼朝のもとで活躍した、和田義盛の一族です。
和田合戦と三浦氏の裏切り
一方、実権者である北条氏を引き摺り下ろし、2代目将軍頼家の遺児を将軍にしようと、泉親衡(いずみちかひら・信濃国の武将。通称・泉小次郎)という人物が、クーデターを試みます。ところが、敢え無く未遂。逆に計画が露呈し、計画に関与していた和田義盛の息子や甥っ子が捕らえられてしまいます。息子らを解放するよう、実朝に懇願する義盛でしたが、クーデター計画の首謀者であった甥っ子の和田胤長(たねなが)だけは、許されることなく、叔父である義盛の目の前で縛り上げられてしまいます。 と、感の良い方はお気づきかもしれませんが、この和田義盛を激怒させる状況は、北条義時の策略です。和田義盛を怒り怒らせ謀反(むほん・時の為政者に背くこと)を起こしたところを逆手に取り、和田一族を打ちのめそうと企んだのです。 更に、義時の和田義盛への挑発は続き、領地を巡って義盛を侮辱し、挑発し、罠にはめ、遂に義盛は義時の作戦にまんまとハマる形で、反旗を翻します。 1213年5月、鎌倉の市街地で、和田軍と北条軍の戦いが繰り広げられます。

和田合戦図(歌川豊国)
画像引用:Wikipedia
鎌倉幕府建立当初から源頼朝のもとに仕えた、和田義盛は三浦一族です。親戚である三浦氏の当主・三浦義村はこの北条氏との戦いにおいて、なんと決起の前日、北条政子および義時に陥れられ、義盛を裏切り、北条氏側についてしまうのです。三浦一族全体で、北条氏に立ち向かうつもりだった一族の大半が、本家の北条氏側への姿勢転換により、兵を引き、和田義盛一族のみが北条氏と戦うことになるのでした。 もちろん和田の戦いは、多勢に無勢。時間が経てば経つほどに、和田軍は不利な状況に陥りました。そして、義盛の息子である和田義直が討たれたことを契機に、「もはやこれ以上戦う意味なし」と義盛は戦意喪失。こうして和田一族は滅びました。 和田義盛が担っていた、侍所別当には、北条義時が就き、政務および軍事の実権を握り、北条氏による権勢を更に高めたのでした。
一騎当千・いざ鎌倉へ
実直で感情的な人物像が伺える和田義盛。三浦一族が突如裏切り、保身のためか実権側につく中、唯一、義盛と共に北条氏立ち上がった果敢な男がいました。 その名こそ、武次郎義国です。 三浦氏が立ち上がらない中、義盛に加勢し、ただ一騎で三浦一族の地より鎌倉に向けて馳せ参じ出陣し、そして、討ち死にしたのです。 ここまで長かった!おさらいというか、長かった!ようやく本題に入って参りましたが、すみません、今回はここまで。 次回にて武次郎義国と地元横須賀の想い、そして横須賀ジーンズ商会の想いを重ねます。
つづきはこちら → 「横須賀の男とスカジャンと武次郎義国」

武次郎義国を祀る横須賀・武の【一騎塚】
参考サイト:大人になってから学びたい日本の歴史「誰でもわかる和田義盛」