みなさんはペリーと聞いたらどのペリーを真っ先に思い浮かべますか?
ケイティー・ペリー?フレッド・ペリー?スティーブ・ペリー?ジョー・ペリー?ペリー・コモ?リー・スクラッチ・ペリー?はたまたペリー酒!?(なぜかミュージシャンが多い…
いやいや、ペリーといえばなんといっても、マシュー・ペリーです。
黒船来航
今からちょうど165年前の1853年7月14日に黒船で横須賀・久里浜に上陸したペリー提督。200年もの長い間、外交が管理統制下にあった日本を開国に導き、日本の近代化を進めるきっかけをもたらしたペリーの業績は、日本の歴史上、無視することはできない出来事です。今回は、教科書には書かれていないペリーの人物像に焦点をあてながら、ペリーの業績をふりかえってみたいと思います。
画像引用:https://jp.wikipedia.org
海軍一家のプライド
マシュー・カルブレイス・ペリー(Mattew Calbraith Perry)は、1794年4月10日に、アメリカ東北部ロードアイランド州ニューポートで生まれました。父のクリストファー・レイモンド・ペリーは、アメリカ独立戦争の際に民兵に入隊し、私掠船(政府から敵国の船を攻撃しその船や積み荷を奪う許可を得た個人船。いわば公認海賊船!)の船長や米海軍大尉、さらにはロードアイランド州民事訴訟裁判所の主席裁判官も務めました。マシューは、8人兄弟の4番目で、マシューを含め5人の男兄弟はすべて海軍将校。しかも、兄の1人である長男のオリバー・ハザード・ペリーは、米英戦争のエリー湖の戦いにおいて勝利をもたらし「エリー湖の英雄」と呼ばれるほどの軍人でした。
“Hero of Lake Erie”こと、オリバーペリー。
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マシューはわずか14歳で士官候補生の辞令を受け、18歳になる1812年には2人の兄とともにアメリカ第二次独立戦争と言われる米英戦争に参加しています。
日本では一、二を争うほど有名な歴史上の偉人であるマシューですが、実はアメリカ本国ではさほど知られていません。逆にアメリカで、今日も教科書に記され後世に英雄として讃えられているのは、兄のオリバー・ハザード・ペリーです。オリバーは、エリー湖の戦いからわずか6年後、ベネズエラ遠征中に疾病により36歳で病死してしまいます。それも手伝ってか、当時からアメリカではその存在が伝説となりました。マシューには文字通り手の届かない存在になってしまったのです。
兄オリバーに比べると、マシューはあまり実戦での業績には恵まれていません。当時アメリカは産業革命の真っ只中。工業化が進むなか照明や機械の潤滑油として大量に鯨油が利用されており、アメリカは日本沿岸を含む世界各地で捕鯨を行っていました。さらに、多くの工業製品を輸出することを目的とした、アジア諸国への進出、なかでも中国市場の早期拡大を目論んでいました。日本はそのための寄港地としてうってつけの地にあります。日本で燃料と食料を補給し、ついでに商売もできるかもしれない。マシューは、戦争で手柄を取れないならば、日本開国で兄以上の手柄をとってみせる!日本開国の大仕事を支えたモチベーションの背景に、兄オリバーの存在が大きく影響していたことも考えられるでしょう。
しかし、そんなマシューの思い空しく、アメリカでは日本開国直後に南北戦争が勃発し、日本開国の偉業も本国アメリカでは霞みと化してしまうのでした。
勉強家・教育家・戦略家
海軍一家に育ち、実戦デビューも18歳と早いマシューですが、実はエンジニアとしての才能を発揮し、出生街道を歩んでいます。当時まだアメリカでも最新技術であった蒸気船の研究をすすめ、海軍工廠の造船所長も務めています。近代化が遅れていた米海軍の蒸気船導入を推進し、蒸気船海軍の父とも称されるほどです。蒸気船を主力とする海軍強化策や、武器の改良整備にも尽力しました。さらには、海軍教育の先駆者としても知られています。
また、日本開国の計画を立てるにあたっては、徹底的に日本の研究を行っていました。当時日本に関する書物がまだ少ないなか、金に糸目を付けず、あらゆる書物を収集し、研究したといわれています。なかには、シーボルトによる「日本」もあり、当時の金額で200万円をくだらなかったほどの高額書籍だったといいます。
日本研究の成果は、用意周到な開国計画に存分に反映されました。
基本的な開国交渉の姿勢として
- 返答期限ははっきり定めること
- 簡単に引き下がらないこと
- 大統領書簡は重役に手渡すこと
そして、任務成功の条件として、
- 戦艦4隻、内3隻は蒸気船が必要
- 日本人は書物で蒸気船を知っている可能性はあるが、実物を 見る事で近代国家の軍事力を認識できるはず
- 中国人同様、日本人も友好より恐怖に訴える方が交渉が有利になる
- オランダの妨害が予想されるので長崎での交渉は避けるべき
と記していたことが残されています。
その他にも、開国交渉を成功させた要因として、マシューの多くの戦略が活かされました。
日本の家屋が紙と木でできていることを知っていたマシューは、炸裂弾を標準装備し、江戸幕府は脅かせました。着弾してから爆発し高熱と破片をばらまく炸裂弾の存在を強調させ、本気になれば江戸を火の海にできるとした脅しは、江戸幕府を恐れさせました。
条約交渉の猶予は1年という江戸幕府の条件をすんなり受け入れひとまず江戸を離れます。が、その後時の将軍・徳川家慶が病気で死去したことを知り、急遽予定を繰り上げ、半年後に日本に再来航したのです。しかも、大艦隊を引き連れて威圧的に現れたうえ、初回以上に強引な交渉を進めました。
’日本人は姿を見せない神秘的なものに畏敬を持つ民族’ということを学習していたマシューは、自分を神秘的に見せることを考え、極力自分の姿を日本人に見せずにいたといいます。外に出る時も、輿で移動し、あたかも自分は天皇並みの地位であるかのごとく、姿を見せず移動しました。
マシューの思惑通り、日本人に対して圧倒的な恐怖心を与え交渉はアメリカの有利に進められました。緻密な調査と相手を知り尽くした戦略は、「戦わずして勝つ」。砲艦外交といわれる恫喝的な交渉を選択し、見事に成功させたのでした。
日本人を冷静に観察していたマシューは、「アメリカの強力なライバルになる」と日本を高く評価していました。マシューの勉強家でエンジニア的な視点は、日本人の根本的な性質を見逃してはいなかったのです。観察眼をもち、合理性を追求するマシューは、日本での経験からも多くを学んでいたことでしょう。
日本人により描かれたマシュー・ペリー。来航当時は「ペルリ(漢字では彼理)」と表記されていた。
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熊おやじは恐妻家
海軍士官といえば、社交界に出入りし、世の女性たちの憧れの職業だったとか。でもマシューは、20歳で結婚し、遊び呆けることなど一切なく、無口で愛想がなく、仕事熱心な真面目男でした。恐妻家ともしられており、妻一筋。息子たちは全て海軍軍人となりました。
古き良きアメリカの典型的な厳しく、そして、家族おもいの良き父親だったようです。海軍勤務で家を空けることがほとんどであったため、子供たちが喧嘩をしないように強く戒める内容の手紙が残されています。
一方、職場である軍の水平や海兵隊員からは、マシューの威張った態度や合図の声が熊のように大声で、体格も大柄(192cm~195cmという記録がある)だったこともあり、「熊おやじ(old bruin)」と影で呼ばれていました。
とはいえ、人事は繊細に個々の境遇を気遣い、温情措置をとるほどでした。
また、職務ではありましたが、北部解放奴隷が増え自由黒人をアフリカに帰す事業に尽力し、移民船で指揮をとっています。奴隷制度は廃止すべきという立場をとり、アフリカのリベリア建国の一躍もかっています。
日本海国の大任を果たしたのち、体調不良を訴え、香港で帰国申請をし、イギリス船に便乗し、地中海を渡り、ヨーロッパ大陸は鉄道で移動しました。ヨーロッパ数カ国での保養を経てイギリスへ、その後ニューヨークへの帰国の途につきます。
晩年は、アルコール使用障害や通風、リウマチなどの生活習慣病に苛まれました。退役後は、日本遠征記の執筆に捧げました。マシューは日本に来る際、画家と写真家を連れてきていており、日本でみたことをそのままに記録することも計画していたのです。それはアメリカでの日本の情報を正すためでもありました。多くの文献で日本の研究をしていたというくらいですから、もしかしたら、日本のことがとても気に入っていたのかもしれません。
横須賀が一番熱い日
ペリー上陸を記念して、毎年7月14日に近い土曜日、横須賀の久里浜でペリー祭りが開催されます。昼は、記念式典やパレード、バザールで街が賑わい、夜は夏の夜空を盛大に花火が彩ります。打ち上げられる花火はなんと3500発。観客動員数は9万人(2017年度)。とても盛大なお祭りです。ペリーが上陸したことで、近代日本の幕開けの地として発展を遂げてきた横須賀。黒船艦隊を率いて開国をもたらしたペリーは、横須賀にとってその史実をしのび祝うにふさわしい存在です。祭りだけでなく横須賀には、ペリーが上陸したことを記念したペリー上陸記念碑や、ペリーにまつわる貴重な資料を展示しているペリー記念館もあり、ペリー上陸の地であることを後世に伝えています。
黒船来航やペリー提督というと、その威圧的な交渉劇が多く語られ、あまり良いイメージを持たない人も多いかと思います。人物像に注目することで、勉強家で仕事熱心で真面目なひとりの人間としてのペリーが浮き彫りになりました。恐ろしいイメージも仕事を全うするための顔に過ぎないのだと思うと、あの仏頂面の怖い人にしか見えない肖像写真も、ただただ真面目なだけなのか、と違って見えるのが不思議です。
年表
- 1794年:私掠船の船長、クリストファー・レイモンド・ペリーと母、セイラの間に3番目の子供として生まれる。
- 1809年:14歳、海軍入隊
- 1812年:米英戦争に兄弟とともに従軍
- 1819年:兄、オリバーハザード・ペリー、ベネズエラで病死
- 1822年:アメリカから、解放奴隷を北アフリカのリベリアに船で護送。
- 1833年:ブルックリン海軍工廠所長に任命
- 1837年:蒸気船フルトン号の建造、海軍大佐に昇進
- 1840年:ブルックリン海軍工廠の司令官に就任、代将となる。
- 1846年:米墨戦争でミシシッピ号の副司令官として、メキシコ湾のベラクルス上陸を指揮。
- 1851年:国務長官ウィリアムに日本開国計画を提言
- 1852年:東インド艦隊司令長官任命。11月、ノーフォーク出発。
- 1853年:琉球経由、7月8日、浦賀に出現。7月14日、久里浜上陸。アメリカ大統領の酷暑を江戸幕府に渡す。
- 1854年:日本に再来航、日米和親条約締結。
- 1855年:アメリカ海軍退役。日本遠征記を著述。
- 1858年:63歳、ニューヨークで死去。