無人島と聞いて、どんなことを連想しますか?
冒険。南の島。秘境。サバイバル。・・・。
横須賀には、なんと、なんと、無人島があるのです。その名も「猿島(さるしま)」。今回は、名前も妙にそそられる猿島のおはなしです。
東京湾に浮かぶ天然の島
面積およそ0.055k㎡。横浜スタジアムのおよそ4個分。
南北450m、東西200m、周囲約1.6km、最高標高39.3m。
東京湾に浮かぶ最大の自然島である猿島。その歴史はとても古く、縄文・弥生時代の石器や土器、焚き火の痕跡などが出土されています。猿島の周りにはもともと十の浅瀬や岩礁があり猿島も、十島(としま)や豊島、とよばれていました。
のちに伝説などにより、今の「さるしま」とよばれるようになりました。申島、去島、猿島とも書かれていたとか。
日蓮伝説
ここで猿島の名前の由来にまつわる伝説を。
時は鎌倉時代の1253年。日蓮宗の宗祖・日蓮が千葉から鎌倉に布教にいくところ、天気もよいので海を渡ろうと船を出したのですが、予想外の天候悪化にみまわれます。強い風と大きな波に煽られ、船底には穴まであいて、船は沈没寸前です。
そこで日蓮は、舳先に立ち、お題目を唱えました。
すると不思議なことに、船底の穴がふさがり、危機一髪、難を逃れたのでした。しかし風は一向におさまらず、いつしか船は島に漂着しました。しばらくすると、日蓮の前に白い猿が現れ、陸地の方向を指差すのです。日蓮はこれをこの島から去り、陸へ行け、ということだと受けとり、また船で海を渡りました、とさ。
(参考:猿島公園専門ガイド協会)
これが、猿島、去島という名の由来です。弥生時代の古代住居跡が、日蓮が休んだとされる洞窟とされています。(現在は、立ち入り禁止に。)ちなみに、現在の猿島には本当の猿はいません。誰かの目には白い猿が見えているのでしょうか…。
この伝説のせいか猿島は、祭礼以外は近づくべからず、とされた神聖な場所でした。現在、堀之内にある春日神社は、もとは、かつて猿島にあったとされる春日神社の拝殿であり、猿島に向かって拝していたといいます。そして猿島に神社があった頃は、島全体が境内だったといわれています。しかし、神聖な神域猿島も、江戸時代にはいると、軍用地となり、社殿移転をよぎなくされるのでした。
猿島の歴史は戦争の歴史
江戸時代後期になると外国船が多く渡来しはじめ、それに脅威を感じた江戸幕府は、猿島を軍用地とします。なぜなら、浦賀水路は江戸を守る重要な海上要塞であり、猿島はその絶好な位置にあるからです。
1847年、幕府は猿島に全国初のお台場とよばれる砲台を3カ所建設しました。これが、猿島要塞の歴史のはじまりです。その6年後、1853年、ペリー率いる黒船艦隊が来航します。このとき、武力衝突は避けられましたが、ペリーの船は、猿島沖に停泊。猿島を「ペリーアイランド」と記した記録が残っているそうです。その後、1855年の安政江戸地震により、猿島の台場は破壊的な被害をうけます。
そして、時代が変わり、明治新政府は愛国富国強兵策を推し進めました。横須賀港が海軍港に指定され、猿島は海軍省の管理下になりました。そののちの1884年、陸軍省へ移管された猿島に、陸軍工兵隊によって本格的な要塞が造られたのです。
そしてまたもや、関東大震災により甚大な被害を受けた猿島の砲台。この頃は戦争の形態も変わり、砲台が不要となっていたため、1925年、陸軍は猿島を放棄。再び海軍に移管された猿島に、横須賀港を守るための防空砲台が整備されました。
第二次世界大戦がはじまると、今度は、鉄筋コンクリート制の円形の砲座が造られ、その上に高射砲陣地を築き、敵機の襲来に備えました。がしかし、その射程距離は高度約8000m。B29爆撃機はそれより高い高度10000mの高さを飛んでおり、ほぼ当たらなかった、とか。結局、実戦でつかわれることなく終戦を迎えるのでした。
終戦後、高射砲が米軍により撤去され、60年のあいだ、軍の管理下にあり民間人が立ち入ることのなかった猿島に、1947年、ようやく一般の人々が足を踏み入れるようになりました。その10年後、1957年には、海水浴場がオープンし、多くの人が海水浴を楽しみました。
ところが、1993年、諸事情により航路が廃止。立ち入り禁止になります。その後、多くの人々が島の利用を求めたことにより、その2年後の1995年。横須賀市が国から管理委託をうけ、散策路などを整備し、公営の公園として、多くの人々が日帰りレジャーを楽しむ無人島となり、今日に至ります。
歴史的建築物の宝庫
息つく暇もないほど、歴史の荒波をくぐり抜けてきた猿島。時代が残した多くの建築物が、いくつも島に残っています。
高さ5-6mの壁の切り通しは、空から軍が発見されないよう山を切り開き道を造ったもの。兵舎や弾薬庫もそのまま残っています。
”愛のトンネル”の名がつくレンガで造られたトンネルは、昼間でも真っ暗で、誰かとつい手をつなぎたくなることから、その名がついています。が、忘れてはいけないのは軍用施設であったこと。要塞の特徴である、攻めて来た敵から出口が見えないように工夫されているから、暗いのです。
レンガ造りのアーチ状の入口がある倉庫は、ワイン蔵のような雰囲気。でも、収められていたのは、ワインではなく、大砲の弾薬。弾薬は、電信柱ほどの太さがあり真上にある台場まで見上げると井戸のような穴が。
明治20年以前のレンガ建造物は全国に22件しかありません。なかでも、猿島に多く現存しているフランス積みによるレンガ建造物は、幕末から明治初期にかけて導入された技術で、その後はイギリス積みに取って代わりました。そのため、フランス積によるレンガ建造物は、その数が徐々に減ってしまい、現在では、猿島要塞を含め国内に4件(長崎・富岡製糸場・横須賀基地内倉庫)残っているのみです。そのなかでも、猿島のレンガ要塞は最大規模で、とても貴重なものだそうです。
ちなみにフランス積みは、一段にレンガの長い方と短い方を交互に積んだもの。イギリス積みは、長い方と短い方を一段ごとに積んだものです。
自然に癒される城・天空の城
トンネルを抜けるとイヌビワの木のツタがくねくねと絡まりあっていたり、木の根と苔と石積みの壁の景色がひろがり、それはまるで「天空の城・ラピュタ」の世界観そのままだと、猿島を訪れる人々のあいだで話題を呼んでいます。
また、猿島桟橋の北側にあるタブノキの原生林は、三浦半島に残された数少ない原生林だそうです。その他にも、シダ類が多く生息し、島の湿度を高めてくれています。潮風に強い、海岸植物も多く生息し、島のあちこちがミニジャングルと化しています。
ラピュタの世界も、戦いと自然がテーマでした。最先端技術を要した天空人は、いつしか地上に降り立ち、人が住まずに宝を抱いた城は自然と共に空に浮かんでいく。
人も自然も、本来の姿は、畑を耕し根を地にはってゆっくりと暮らし、生きていくもの。
猿島の景色とラピュタの世界が重なるのは、猿島が長い歴史のなかで経てきた荒々しい時間と、いつでも力強くありのままで生き続ける自然があるからなのかもしれません。
三笠桟橋からフェリーで10分。気軽に訪れることができる、無人島・猿島。これからの季節、自然と歴史に触れることのできる絶好のロケーションです。
島内ではくれぐれも、ルールを守って過ごしましょう。白い猿にどこかでみられているかもしれませんからね。
参考サイト:
ー猿島航路フェリーーhttps://www.tryangle-web.com/sarushima.html
ー猿島公園専門ガイド協会ーhttps://sarushima-guide.jimdo.com
ー猿島infoーhttps://sarushima.jp