JAZZと汽笛とお爺ちゃん-3-

ヨコスカ

生涯プロのJAZZバンドマンだった石渡稔のお爺ちゃんのロマンストーリーをお届けしているシリーズ。3回目の今回は、丘の上のお爺ちゃんとJAZZ。そして、我らが横須賀とJAZZのおはなしです。

丘の上のJAZZ・松竹楽劇団

1938年、帝国劇場で旗揚げされた松竹楽劇団は、当時の最先端を行くbig bandでした。初代バンマスは神恭介。その後、戦後歌謡界で活躍をした作曲家の服部良一もバンマスを務めました。それまで、バンドはあくまで裏方的存在で、バンドボックス(舞台の下)やシンガーの後ろで演奏するのが一般的でした。松竹楽劇団は、そのバンドを表舞台に上げ生粋のJAZZを聴かせるJAZZショーを展開したのです。サックス4人、ブラス5人(トランペット3人、トロンボーン2人)、リズム4人(ギター、ベース、ドラム、ピアノ)、バイオリン2人。ベニー・グッドマンが1938年の正月にクラシックの殿堂であるニューヨークのカーネギーホールでスウィングショーをした時とまったく同じ編成でした。その当時日本においては、宝塚レビューや少女歌劇団といった若い女性をターゲットにしたショーが主流の中、松竹楽劇団は、大人のための本格JAZZショーを試みていたのです。松竹が相当な資金を投入し、当時の最高のバンドマンが召集され、松竹楽劇団は戦前最もハイレベルのJAZZショーでした。戦後、東京ブギウギで大ヒットし、「ブギの女王」と呼ばれた笠置シヅ子はこの楽劇団出身です。そんなトップ集団の中に、お爺ちゃんの姿もありました。

松竹楽劇団「ジャズ・スタア」公演

1939年6月 松竹楽劇団「ジャズ・スタア」公演。中央の指揮者が服部良一。その右横2人目(サックス)がお爺ちゃん。

戦争の始まり・戦地へ赴く慰問団

1930年代はバンドマンにとって華の時代。「船の楽団」によって運ばれ、ダンスホールや松竹楽劇団をはじめとした劇場でのbig bandコンサート、歌謡界でもJAZZのリズムが人気となり、まさに花咲いた日本のJAZZシーン。それもつかの間、1940年に入ると、日米関係の悪化により、徐々に国による欧米文化や娯楽文化の弾圧が強まりました。「船の楽団」を輩出した北米航路も相次いで休止され、国内全てのダンスホールが閉鎖に追い込まれました。お爺ちゃんが所属していた松竹楽劇団も終止符を打ち、多くのバンドマンたちが職を失いました。それでも優秀なバンドマンは戦地に赴き演奏する慰問団として活動しました。1941年、お爺ちゃんは、当時人気絶頂にあった李香蘭(山口淑子)の専属楽団員として満州や朝鮮の京城(現在のソウル)を巡業しました。同年11月には、陸軍派遣慰問団奥田宗宏楽団の一員として北支(中国北部)巡回慰問、12月には、和製ポップスの基礎を築いた歌手の中野忠晴や、バタヤンの名で親しまれ長年現役歌手として活躍した田端義夫一行に同行し、各方面部隊を巡回しました。そして、1941年12月8日、青島にて日米開戦を迎えました。

李香蘭バンド

李香蘭(山口淑子)バンドでの朝鮮満州慰問公演。中央が李香蘭(サイン付き)。右端サックスがお爺ちゃん。

横須賀のJAZZ

再び日本中にJAZZが響き渡るようになるのは、戦後のこと。軍国主義で強張っていた国民を解きほぐすため、進駐軍が国民放送(NHK)を通じて連日ポピュラーJAZZを流させ、日本に社交ダンスブームを蘇らせたのです。また、東京横浜を中心に進駐軍クラブがオープンし、閉鎖していたダンスホールも再びそのドアを開けました。

我らが横須賀は、日本国内でも有数のJAZZの聖地でした。旧海軍施設を接収した米軍によって、横須賀の街にアメリカ文化が流入し、街中の至る所でJAZZのリズムが響き渡りました。戦後のどぶ板通り商店街周辺には、100〜200軒のバーやクラブがたち並び、国内外問わず有名JAZZミュージシャンたちが腕を振るっては、人々を魅了し刺激を与えていたと言います。

中でも米軍に接収された旧海軍下士官兵集会所は、EMクラブ(Enlisted Men’s Club) となり、その収容数とレベルの高さから「東洋一」と称されるほどでした。米軍施設のある土地になら何処にでもEMクラブがありましたが、当時の横須賀EMクラブは“米軍史上最大の娯楽場”と称されていたそうです。誰もが知るJAZZの神様、ルイ・アームストロングをはじめ、フランク・シナトラ、ディーン・マーティンもかつて横須賀のEMクラブの舞台に立っています。また、日本を代表するJAZZミュージシャンたちも、若かりし頃、このEMクラブを愛し横須賀に集いました。秋吉敏子、渡辺貞夫、ジョージ川口、原信夫、そして横須賀出身のJAZZミュージシャン渡辺正典ももちろんそのうちの一人です。特に日本人JAZZミュージシャンたちにとっては、打ってつけの腕試しの場でもあったようです。1000人を超える耳の肥えた米国人客を相手に、楽譜に縛られないJAZZを演奏するのは、技術はもちろん感性とそして何より相当の度胸が必要だった事でしょう。

EMクラブ(Enlisted Men’s Club)

在りし日のEMクラブ全景 画像引用:そらいろねっと

EMクラブの他にも、どぶ板通りにはホワイトハット、クラブヨコスカ、ドルフィンクラブなど、東京や横浜から若者たちが通ってくるほどの流行りのクラブが連立し、横須賀の街が戦後の日本のJAZZムーブメントを大いに牽引したと言われています。当時の横須賀を知る人々が口を揃えて「横須賀でホンモノを体験した」「横須賀でしか味わえないJAZZがあった」と当時を振り返っています。

現在、横須賀では当時の横須賀の活気を呼び覚まそうと、3年前から「横須賀トモダチジャズ」というイベントを開催しています。先述のEMクラブの伝説を語り継ぎ、戦後日本のジャズの聖地の名にかけて、JAZZを通して人と街とが繋がる街ぐるみのJAZZフェスティバルとなっています。

参考リンク:

2017年3月7日付日本経済新聞朝刊「横須賀、スイングの街再び 往時目指しジャズフェス 」

2012年5月28日付横須賀経済新聞「戦後ジャズ史振り返る、「横須賀JAZZ物語」-県立歴史博物館でトークイベント

横須賀トモダチジャズ 公式サイト

次回、いよいよシリーズ最終回。JAZZと故郷、そして家族。脈々とDNAに流れるメッセージを読み解きます。

参考文献等:

日本郵船歴史博物館企画展「ミナトに響いたJAZZと汽笛ージャズを運んだ楽士たち」パンフレット

東奥日報社2009年9月2日〜19日連載(全15回)「ジャズを運んだ県人ー鶴ケ谷嘉宏のバンドマン人生ー」

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