横須賀ジーンズ商会のメインイメージであり、YOKOSUKA JEANSの革パッチにも使われている2隻の大型客船の写真。
この写真は、横須賀ジーンズ商会代表の祖父が遺した写真です。ホームページのトップやインスタグラムに使用しているセピア色のノスタルジックな画像も全てそうです。
横須賀ジーンズ商会代表の祖父は、かつて北米航路客船の「船の楽団」に所属し、下船後には「松竹楽劇団」や李香蘭の専属バンドに所属し朝鮮・満州巡業、戦後復興のダンスホールや米軍キャンプやクラブ、サロンなど、戦前・戦後における日本の音楽史のメインステージで演奏していたプロのJAZZバンドマンでした。これから数回にわたって、横須賀ジーンズ商会のDNAに染み込んだロマンに満ちたストーリーをお届けします。
お爺ちゃんはJAZZのひと
几帳面で寡黙、頑固だけど優しくて、時々お茶目なことを言っては、笑顔も見せてくれる。意外なところはプロレスが好きなこと。朝食は決まって、ポップアップ型のトースターで食パンを焼いて、丁寧にバターを塗って食べ、インスタントコーヒーにクリープ(コーヒー用粉ミルク)を入れて飲んでいた。お爺ちゃんの朝食の景色や匂いは眼と鼻が今でも鮮明に覚えている。
小さい頃から変わらずにあるお爺ちゃんの記憶は、どこか洒落ていて、外国の匂いがして、ほんの少しだけ近寄り難かった。実際、背は低く小柄な人だったけれど、顔立ちは鼻が高くほっそりしていて、カッコ良かった。寡黙で静かなことも手伝って独特な世界観に包まれていた。
そして、お爺ちゃんはクラリネットやサックスを吹くJAZZ のバンドマンだった。
74歳まで現役でプロの楽士として演奏していた。リードを舐めて楽器の下準備をしている光景は、非日常的で興味津々だった。英語の楽譜をもっていて、ある時は、ノートに線を引いて英語の筆記体の書き方を教えてくれた。
「俺がラッパを辞める時は死ぬ時だよ」
とよく言っていたそうだ。現役引退後も、時々電話が掛かってきては楽器ケースと共に出かけたり、奥の畳の部屋で楽器を手入れしたりしていた。時代の変化と共に演奏の場がなくなっていったのは確かだろうけれど、お爺ちゃんの心の中にはいつでも“ラッパ”があり、そういう意味では生涯現役だったのだと思う。
戦前・戦後と激動の時代に、”生きるため”に楽士になり、”ラッパ”で家族を支え、JAZZバンドマンとして人生をおくったお爺ちゃんは、今思えばめちゃくちゃ時代の先端を生きていて、そしてなによりもカッコいい。自慢せずにはいられない存在だ。
お爺ちゃんの写真が呼び寄せるストーリー
お爺ちゃんが山ほど遺してくれたセピア色の写真には、映画のシーンのような景色がいっぱい写っている。黒い大きなクラシックカーが行き交い重厚な建物が並ぶ古めかしいアメリカの街並み、高層ビルのない緑豊かな香港の景色。外国が本当に海の向こうの知らない世界だった時代、船で彼の地へと旅発つ人々を見送る人・見送られる人、出航を演出する「船の楽団」の演奏風景。
寄港先のドックで束の間の休息をとる楽団員たち。JAZZバンドマンのお爺ちゃんが見た景色だと思うと、何故だかワクワクするのと同時に、夢が、希望が身体中に拡がっていく気がした。
横須賀ジーンズ商会を立ち上げ、「自分が穿きたいジーンズを作りたい」と思ったとき、真っ先にお爺ちゃんの写真のことを思い出した。脈略も何も考えずに、次の瞬間には写真をデータ化しブランドのメインイメージにする段取りをした。今では、革パッチ、ホームページ、Instagramなど、お爺ちゃんの写真が、横須賀ジーンズ商会の顔となってくれている。不安や迷いが訪れた時はいつだって、これらの写真が自分の居場所や行くべき場所を示してくれている。そして、半ば勢いでお爺ちゃんの写真に飛びついたけれど、必然とも言いたくなるような思いがけない繋がりや共通点が見えてきた。
(次回につづきます)